蓋をすることは果たしていかがなものか

おはようございます

こんにちは

こんばんは


おそらくこれまたお久しぶりです。


もう、どんな挨拶を定番として書いていたかサッパリ忘れてしまいました。

忘れたと言うことは、それが久しぶりであると言うこと。

久しぶりを引き出して来るまでが長すぎるなと思ってしまいました。



さて、本題に参りましょう。久しぶりなことで話を広げるのもアリですが、どうせ誰もみていないブログです。

話したいことだけを話して、もとい、書いていきたいと思います。


今日はタブーについてです。

蓋をするとは、そういうことです。臭いものにはという話ですね。


今日、とある歌手の方が優生思想のようなツイートをして大荒れしました。

優秀な遺伝子を残した方がいいとか言う話をして、周りの人が大激怒。

ナチスを知らないのか」「危険な考えだ」「生きると言うことを冒涜してる」みたいなニュアンスが沢山書かれていました。



さて、ここでこのブログを書いている私がどのくらい優生思想を知っているのかについてですが、全く知りません。俗に言う義務教育の敗北かもしれませんね。人権的な問題について全く学ぼうとしてこなかった姿勢は責められて然るべきだと思います。

ここが検閲等がなされ、処罰される国でなく良かったなと思うのは、これから、私が優生思想は悪くないのでは?と言うことを書くからです。


え?蓋をするって話はどうしたって?


まぁ、待ってくださいよ。俺のブログがまとまった綺麗な話なんてしたことないでしょ。



優生思想についてです。優秀な遺伝子を残そうと言う話ですね。

良いのでは?と思いました。人類が何かしら人口を絞らねばならない時、優秀な才能が顕現している人間の遺伝子を保存しようと言う考えは、肯定されることではないが、考えとしてひとつありなのではと。

努力によって成り立ったものであって、遺伝子は問題ではない。

と言う意見もあるでしょう。しかし、確実にその遺伝子を備えたものからその才能が開花したことを否定することは出来ないと考えるわけです。

逆に、才能が開会していなくとも、いついかなる時に開花するかはわからないと言う意見、これも確かです。しかし、今現状で開花していないのであれば、可能性にかけるなどと言う不確定因子は切り捨てられるのではないかと。


ただし、これは剪定が必要となった場合のみの話です。もちろん、今の世の中で「この考え方を押し通そう」「これは良い考えだ」などとは一つも思っていません。


ある人になぜ優生思想はいけないのかと聞くと「後々の可能性を否定することはできないためだ」と言われました。これには上記で反論することも可能ですが、たしかに、可能性を捨てきれないことも事実ですので、どちらにもつかないなと言う考えでしたがもう一つが面白かった。


「生命において、綺麗事は必要だ」


SNSに記載されていたあらゆるリプライは「ナチスを知らないのか」などの過去からの物言い。「危険思想過ぎる」という理論の伴わない制圧するためだけの感情論。「もっと優生思想を勉強せよ」という知識人ぶった意味のない反応。


こういったものだらけで辟易していたのですが、この「生命において、綺麗事は必要だ」という、凄まじく綺麗事に全てを振った凄まじいまでの潔さ。わたしにはこれが一番ストンと自分の中に落ちました。

なぜ、いかなる生命も生かされるべきで、その価値に優劣をつけてはいけないのか。

その答えはどんな理論を並べたものより、人間の直感で「これは良くないんじゃない」という綺麗事ながらも最も人間らしい清らか答えが一番ふさわしいのでは?と感じてしまいました。

能力がない、才能がない、だから切り捨てる

これは理論では否定出来ない気がします。さらに優秀な高みに登るためには不要なものは排除する。キツイ言い方かもしれませんが間違いとも取れません。

しかし、それを否定するのが「生きていたっていいじゃないか」という、ただの綺麗ごとです。仰々しい理論を並べる事なく、今まで人々が生きる事で培ってきた感性で、人々は生きることを選べるのだと考えるととても気分が良くなりました。



さて、蓋の話です。ある人が、この優生思想発信に「疾患を持った方でも、良い才能を持つ方がある」と返信されていました。発端となった方は、優秀な遺伝子を残すべきと書いただけで、疾患などの話はされておらず、むしろ、才能があるのならその疾患を持つ方も残される方になるはずなのに、わざわざ「疾患のある方」と返信したのです。


無意識というやつでしょう。

疾患を持つ方は、他の方より、ハンデがあるという。

皆、心のどこかで、何が「優」で何が「劣」なのかを知らないうちに判定しているのでないか。そのように思いました。


しかし、そういったことに蓋をしているため、正確にそのことを捉えることが出来ず、発信することも出来ないのではないかと。


そもそも、タブーと呼ばれているものをタブーのままにしておくことはより危険なのではないかと思うのです。


その知識を会得して、では、それを繰り返さないためにはどうすればいいのか

そちらを議論する方が有意義ではないかと。


知らないからこそ、今回のような発言が出てしまい、なおかつ、興味をもって調べたものが危険である知っているので、袋叩きにする。知りもしないものは困惑してしまうのではないかと思います。


無知は悪


よく言いますが、その無知になってしまう環境を作り上げているのは誰なのか。

それを考えなくては、ただ危ないものが浮かんできたら、排斥するというなんとも味気ない行為が繰り返されるのではないかと思います。


優生思想は良しとしない方々は、平等がお好きなのでしょう。


ならば、全てのものにタブーについても考える機会を与え、知識と知恵、思考という観点で真に「平等」と言える形を作る方が良いのではないかと思います。


いつまでも蓋をしているようでは、中身は腐っていく一方です。


皆がその物の特性を知っていれば、処理の仕方もわかるのだから、蓋をするまでもなく、腐ることなどないのではないかと、そう思います。




とかなんとか堅苦しいことを書いて疲れたので終わります。


では   また。