全てに申し訳なく
お久しぶりです。
最初に書いた記事が、未だ1年前表記であることに安堵しつつ、どんどん年月が経つことへのハードルが下がっているなと実感している今日この頃です。
最近、どの言葉だったか忘れましたが、ずっと使っていた言葉の意味を履き違えていたことに気がつきました。
この履き違えという言葉さえ間違っているかも知れませんが、意外と間違って使っている言葉があるのだなと思いました。馬鹿なので何を間違っていたのかすら覚えていませんが。
さて「全てに申し訳なく」と書きましたかね。
上にスクロールしないとタイトルが見られないので、多分これだったろうという予想で書いています。
私は今、いや、俺は今、残念ながら生きています。「俺」と言い直したのは、これも最近気がついたのですが、俺が「私」を使うときは、何かしら自分の周りに壁を張り、取り繕っている時だと気がついたためです。
素のままで話せよクソ野郎ということで「俺」を使います。
「全てに申し訳なく」ですが、単純な話、この世にある全てに申し訳なくなってきたと言う話です。人に対してとかではなく、全てです。
今使っているスマホにも、住んでいる家にも、家電にも、水道にも、ガスにも、電気にも、その他諸々、皆様が思い当たる日常生活で目にするであろう全てです。
俺はとんでもない無能です。皆様(と言ってもこの場所は誰にも見られていないとは思いますが)が想像される以上に。
何も出来ません。本当に。ただ呼吸して、そこにいるだけの塊です。
石ころといい勝負でしょう。こんな人間に天秤にかけられる石ころさんが哀れですが。わかりやすさのために使わせていただきました。今、俺が例題に使ったことにより、俺より石ころさんの方が価値が上がりましたね。誰かの役に立っているので。
何も出来ないのです。なのにも関わらず、俺はスマホを使います。俺より賢いスマホを。
俺はガスを使います。何かを調理出来るガスを。俺は水を使います。人間が生きるために必要不可欠で、色々なものを洗い流したり出来る水を。俺は電気を使います。暗がりに光を灯して明るくしてくれる電気を。
では、俺は?
何か出来ますか?出来ません。人のために何も出来ません。何かのために何も出来ません。ではなぜ、上記のものを使って生きているのか、そう考えた時、全てに申し訳なくなったと言うわけです。
本当に訳がわかりませんよね。彼らが不憫でなりません。なぜ俺如きに使われなければならないのか。全てを手放して、使われるべき人間に使われるべきだと。こう書きながらも明日からも俺はこれらの皆様を使うのでしょう。浅ましくて吐き気がします。この文をどこかに書くことにより自分の中の罪悪感を和らげようとしていることにも腹が立ちますし、それを書くことによって更に、、、これは繰り返しになるので意味を成しませんね。
こうまで書いても、死ぬのが怖くて、死にたくないと思ってしまうのですから、俺は本当に恥晒しな汚い人間だと思います。
分相応になるように頑張ればいいじゃないかとも思いますが、それが出来ていれば苦労しませんと言う逃げ口上。
どこまでも反吐が出るような醜態人間です。
嫌になりますね。大嫌いですこんな奴は。
明日からもこいつにムカつきながら生きていきます。死にたくないけど、早く死んでほしい。
いや、死にたくないな。面倒だな。なんなんだこれ。どうしたら、いや、頑張って人らしい生活を送ればいいだけなんだよ。
こんなところに文章書いている暇があったら勉強すればいい。学習すればいい。でも、面倒だからしないよな。知ってるよ。ここにこんな文章を書くのは、何の知識も技量も努力もなく、さらっと文章が書けて「何か」をやった気になれるからだと言うことは理解しています。
くだらない。ふざけている。
ああ、学習しないから、このモヤモヤに当て嵌める、当て嵌まる言葉さえ見つけられない。嵌まるなんて言葉、現実じゃ書けないくせにカッコつけて使うなよ気持ち悪い。
文としての体裁を保てなくなってきましたね。
醜いです。
そういえば前回から201日経っているそうです。
200なんて大きな数字を経ても尚、なんの変化も為していない人間がいることに驚きつつ、受け止めもせず、他人事のようにそれを嘲る自分を更に嘲り笑って、これからの日々も、いや、これからの日々と呼んでいいものなんて、俺にあるんですかね。ないですよね。ありません。失礼しました。
もうどうにもなりません。終わっていくだけです。終わってますよ。もう既に。
もっと人として生きたかった。遅すぎることはない?もう遅いですよ。だって、どうする気も湧かないんですから。出来る人の尺度で、低脳無能クズの行動を語らないでいただきたい。そもそも、あなた方が使っている物差しで測れる存在自体が俺には無いのだから。
無理とかじゃないんですよ。無なんです。
結局鬱憤晴らしですね。
嫌気が刺します。刺された勢いで全て終わってくれたらな。
終始気持ち悪いですね。
明日からも生きます。
これを書いておかないと、不可抗力で死にそうで怖いので。
書いてしまって申し訳ない。
では
また。
相も変わらず
お久しぶりです。
前回もこう書きました。
今見たところ、なんと約200日もまえに書いたブログが最後という。半年前ですね。時の流れは怖い。
さて、今日も愚痴です。
早々と3日坊主を決め、これを書いた後もどうせまた書かなくなるとは思うのですが、そもそも誰にも読まれていない、私の愚痴の掃き溜め、いわばゴミ箱、処理されないのが厄介な場所と成り果てたこの場所には、続かないことが望ましいのかも知れません。
考えが何も纏まらないまま、浮かんできたことだけを書くため、支離滅裂必死なわけではありますが、お付き合いください。
ここにこう言った文章を書きながら、文才が有ればななんて思うわけです。
しかしながら「才」というものは、元来の性質ではなく、苦労して会得するものです。
我々、と括るのは失礼かも知れませんが、何もしない人間が、諦めと、そして嫉妬を抑えるために用意した言葉が「才」です。
そうでない可能性もありますが、大体がそうでしょう。
彼、彼女には「才能」があった。
このようにいうことにより、自分は才がなかったからダメだったのだ。充分努力はしたと自分を許してやるための免罪符に過ぎません。
自分の過ごしてきた日々を彩りたいが為の弱者による傷薬です。本気になれなかった自分を直視出来ないだけのことなのです。
にもかかわらず、他の人間の努力を「才」だけで片付けて、心の安寧を保とうとしている。
どこまでも小賢しい、卑しい考えです。
どこまでもどこまでも追い続け、折れそうになってもやめない、やり続ける。
そうすることによって初めて、何かを掴める。しかし、それにかける時間が怖くて、安定を求めて、人は死んでいく。
なぜこんなことを書くのか。
最近私は、ありとあらゆるものへの嫉妬が酷くなってきたために、せめて、まだ理性が利く間に、お前のそれは間違っていると書き記したかった、のだと思います。
正直よくわかっていません。
私は私が大嫌いです。何もしないくせに、何かをしているであろう人間を妬む。
何かをしなければ成果を得られないはずなのに「あいつは努力もしていない。馴れ合っているだけなのに、あの場に立っている」などと、頭の中身が空っぽなのかと言われるような嫉妬を抱いています。
そんなわけはないのです。
呼吸のようになんでも出来るようになるわけがない。
わかってはいるけれど、真剣になれない自分をよそに、見えないからと言って、きっとこうなのだと思うことにより感情を収めているのです。
自分のことを自分の内部でコントロール出来ないとは、良い年をして恥ずかしいなと思うばかり。
ここにこう書くのも、わかっているけど、それがやめられないんだ「わかっているけど」の、わかっているんだ、馬鹿ではないのだという非常に身勝手な主張をしたいがためです。どこまでも卑怯で意地汚い人間だと思います。
どこまで人を苔にすれば気が済むのかと。
こんなところに書いている時点で、先ほど言った直視が出来ていない。
ずっと逃げ続けている。
私は過去いじめられたことがあり、死のうと思ったことがあります。
最近よく流れてくるいじめによる自殺。
あれを見れば私の受けたいじめなど、ミジンコ並みだなと思います。
彼らが生き残れば良かったと。これを言葉にすると本当にそうなりそうなので、やめた方がいいかも知れませんが、あのいじめられたときに死んでおけば良かったなと思いました。
どうせ逃げ続ける人生なら、終止符を早めに打とうが変わらなかったのではないかと。
親は悲しむでしょう。我が子を失えば基本悲しみます。こう断定出来るのは私が恵まれた家庭に生まれたからでしょう。ありがたい話です。
友達は泣くでしょうか。わかりません。そもそも私が記憶に残っているのかも。
泣いてくれると嬉しいですが、正直死ぬ方からすれば、親の記憶にも、友人の記憶にも残りたくありません。苦しめるだけなので。
こうは書いたものの、死にたいわけではありません。死ぬのは痛いでしょうし、死後の世界があるかわからない中で死ぬのは恐怖です。
しかし、もし、死んだ瞬間、全ての人の記憶から私という存在が消えてくれるので有れば、死にたいと思う時もあります。怖いので、老衰以外では死にたくありませんが。
自分を愛せない人は人に愛されない。わかっていますそんなこと。自分が嫌っている人のことを他人が好きだといってそれで受け入れられるわけがない。
だから、私が人から好かれることはない。それでも人からは好かれたいのです。しかし、自分のことは一生好きにはなれません。こんな奴は大嫌いです。
何も懸命にしようとしない。すぐに保険をかける。何かに打ち込むこともしない。ノルマもこなさない。人に追いつこうともしない。技術も力もない。その上、愚痴を言う口だけは達者で誰の為にもならない。
低俗で低脳で、能無しのどうしようもないクズ野郎。
もっともっと、色々と自分が至らないが故に、イライラしている、全て自分が悪い事柄が沢山あるのですが、なぜか頭がボーっとしてきたので、この辺で終わりたいと思います。
永遠に誰にも勝つことが出来ない惨めで哀れな、いや、そもそも惨めで哀れと表してもらえらほどの価値もない人間の私の、今日のブログはこの辺にて終了です。
では。
また。
過去への嫉妬か若さへの羨望か。
こんばんは
夜に書いているのでこんばんは。
お久しぶりでございます。
と述べても誰も見ていないとは思いますが。
もう、この場所は、何かむしゃくしゃした時に、考えを書き殴る、平穏を保つ為だけの場所になってしまいました。
まぁ、それも在り方として良いでしょう。
さて、今日は何についての話かというと、タイトル通り、大まかに嫉妬です。
最近の若者たちは、なんでも知っていて、なんでも出来て、簡単に自分なんぞ超えられているように思えてなりません。
情報量の差なのかなとも思いました。
私が小中高生の頃、全員が全員、スマホやパソコンを持っていたわけではありませんでしから、その差なのかなと。
しかし、それでは埋まらない何かがある。
それは、彼等、いや、わたしと他の人々との努力、歩んできた道の険しさなのでしょう。
もう、遠に20歳を過ぎ、アラサーと呼ばれる領域に足を踏みいれようとしている私ですが、なんとも、まぁ、生ぬるい人生を送ってきたなと思うのです。努力もせず、最低限、なんとか生きてきたようなそんな人間です。
「その若さでしっかりしていて素晴らしい」「わたしの若い頃はそんなにしっかりしていなかった。尊敬する。」
そんな言葉を世論で聴くと嫌気が差します。
もう褒められる歳ではないのに、嫉妬をしてしまう。ああ、同じように生を受けたにも関わらずここまで雲泥の差が出来るものかと。
過去に戻って私もやり直せば…なんて思うこともありましたが、この怠惰な考えな持ち主であるところの私が、時が戻ったとて努力するとは思えません。今、嫉妬している状況に置かれてもなお、なにも努力する気が起こらないのですから。
悔しい、嫌だ、辛い、なぜ彼等だけ持て囃されて。
抱いていい筈のない感情をずっと持ち続け、そして何もしない。
なぜ何もしないのか。
それは明確です。何かをしてしまって「出来ない」という事実を受け止めたくないからです。
やっていないから出来ていないだけ。
いつまでもそう言って、傷つくことを恐れて生きていくのです。
今までも、これからも。
書き出せば書き出すほど、醜い嫉妬に塗れ、よくぬけぬけと生きているなと思います。穀潰しという言葉の肌触りが気持ちいいです。
周りの人間が憎い、褒められて、認められて、楽しそうに生きて、努力したからこの場所にいると言えて、羨ましい。恨めしい。
と、なんかめちゃくちゃ病んだので、この辺にしときます。
明日も愚痴を吐き捨てながら、のうのうと生きていきます。ごめんなさい。ありがとうございます。
では
また。
蓋をすることは果たしていかがなものか
おはようございます
こんにちは
こんばんは
おそらくこれまたお久しぶりです。
もう、どんな挨拶を定番として書いていたかサッパリ忘れてしまいました。
忘れたと言うことは、それが久しぶりであると言うこと。
久しぶりを引き出して来るまでが長すぎるなと思ってしまいました。
さて、本題に参りましょう。久しぶりなことで話を広げるのもアリですが、どうせ誰もみていないブログです。
話したいことだけを話して、もとい、書いていきたいと思います。
今日はタブーについてです。
蓋をするとは、そういうことです。臭いものにはという話ですね。
今日、とある歌手の方が優生思想のようなツイートをして大荒れしました。
優秀な遺伝子を残した方がいいとか言う話をして、周りの人が大激怒。
「ナチスを知らないのか」「危険な考えだ」「生きると言うことを冒涜してる」みたいなニュアンスが沢山書かれていました。
さて、ここでこのブログを書いている私がどのくらい優生思想を知っているのかについてですが、全く知りません。俗に言う義務教育の敗北かもしれませんね。人権的な問題について全く学ぼうとしてこなかった姿勢は責められて然るべきだと思います。
ここが検閲等がなされ、処罰される国でなく良かったなと思うのは、これから、私が優生思想は悪くないのでは?と言うことを書くからです。
え?蓋をするって話はどうしたって?
まぁ、待ってくださいよ。俺のブログがまとまった綺麗な話なんてしたことないでしょ。
優生思想についてです。優秀な遺伝子を残そうと言う話ですね。
良いのでは?と思いました。人類が何かしら人口を絞らねばならない時、優秀な才能が顕現している人間の遺伝子を保存しようと言う考えは、肯定されることではないが、考えとしてひとつありなのではと。
努力によって成り立ったものであって、遺伝子は問題ではない。
と言う意見もあるでしょう。しかし、確実にその遺伝子を備えたものからその才能が開花したことを否定することは出来ないと考えるわけです。
逆に、才能が開会していなくとも、いついかなる時に開花するかはわからないと言う意見、これも確かです。しかし、今現状で開花していないのであれば、可能性にかけるなどと言う不確定因子は切り捨てられるのではないかと。
ただし、これは剪定が必要となった場合のみの話です。もちろん、今の世の中で「この考え方を押し通そう」「これは良い考えだ」などとは一つも思っていません。
ある人になぜ優生思想はいけないのかと聞くと「後々の可能性を否定することはできないためだ」と言われました。これには上記で反論することも可能ですが、たしかに、可能性を捨てきれないことも事実ですので、どちらにもつかないなと言う考えでしたがもう一つが面白かった。
「生命において、綺麗事は必要だ」
SNSに記載されていたあらゆるリプライは「ナチスを知らないのか」などの過去からの物言い。「危険思想過ぎる」という理論の伴わない制圧するためだけの感情論。「もっと優生思想を勉強せよ」という知識人ぶった意味のない反応。
こういったものだらけで辟易していたのですが、この「生命において、綺麗事は必要だ」という、凄まじく綺麗事に全てを振った凄まじいまでの潔さ。わたしにはこれが一番ストンと自分の中に落ちました。
なぜ、いかなる生命も生かされるべきで、その価値に優劣をつけてはいけないのか。
その答えはどんな理論を並べたものより、人間の直感で「これは良くないんじゃない」という綺麗事ながらも最も人間らしい清らか答えが一番ふさわしいのでは?と感じてしまいました。
能力がない、才能がない、だから切り捨てる
これは理論では否定出来ない気がします。さらに優秀な高みに登るためには不要なものは排除する。キツイ言い方かもしれませんが間違いとも取れません。
しかし、それを否定するのが「生きていたっていいじゃないか」という、ただの綺麗ごとです。仰々しい理論を並べる事なく、今まで人々が生きる事で培ってきた感性で、人々は生きることを選べるのだと考えるととても気分が良くなりました。
さて、蓋の話です。ある人が、この優生思想発信に「疾患を持った方でも、良い才能を持つ方がある」と返信されていました。発端となった方は、優秀な遺伝子を残すべきと書いただけで、疾患などの話はされておらず、むしろ、才能があるのならその疾患を持つ方も残される方になるはずなのに、わざわざ「疾患のある方」と返信したのです。
無意識というやつでしょう。
疾患を持つ方は、他の方より、ハンデがあるという。
皆、心のどこかで、何が「優」で何が「劣」なのかを知らないうちに判定しているのでないか。そのように思いました。
しかし、そういったことに蓋をしているため、正確にそのことを捉えることが出来ず、発信することも出来ないのではないかと。
そもそも、タブーと呼ばれているものをタブーのままにしておくことはより危険なのではないかと思うのです。
その知識を会得して、では、それを繰り返さないためにはどうすればいいのか
そちらを議論する方が有意義ではないかと。
知らないからこそ、今回のような発言が出てしまい、なおかつ、興味をもって調べたものが危険である知っているので、袋叩きにする。知りもしないものは困惑してしまうのではないかと思います。
無知は悪
よく言いますが、その無知になってしまう環境を作り上げているのは誰なのか。
それを考えなくては、ただ危ないものが浮かんできたら、排斥するというなんとも味気ない行為が繰り返されるのではないかと思います。
優生思想は良しとしない方々は、平等がお好きなのでしょう。
ならば、全てのものにタブーについても考える機会を与え、知識と知恵、思考という観点で真に「平等」と言える形を作る方が良いのではないかと思います。
いつまでも蓋をしているようでは、中身は腐っていく一方です。
皆がその物の特性を知っていれば、処理の仕方もわかるのだから、蓋をするまでもなく、腐ることなどないのではないかと、そう思います。
とかなんとか堅苦しいことを書いて疲れたので終わります。
では また。
結局は自分の都合
おはようございます
こんにちは
こんばんは
「こんにちは」と「こんばんは」に丁寧な言い方がないのってなんだか歯がゆいですね。
お久しぶりです。
ここではいつも、柄にもないことを書いています。
今回、書くことも柄にもないことです。
私は、馬鹿なので、見る人が見れば「君はそんなこともわからないのか、小学生からやり直せ」と言われそうです。
ちなみに、今、タイムリーに起きたことを書きます。小学生と打ち込もうとしたら「生姜くさい」と打ち込んでしまいました。
はい、それだけです。
では、本題に。
結局は自分の都合
とか言うタイトルでしたかね。
書き出すと見ることが出来なくなるので。
まぁ、いいでしょう。そう言うタイトルだった気がします。
平等について思ったことを記載します。
平等、平等ってよく言いますが、こと、金のこと、つまるところ企業といいますか、金儲けといいますか、これに関して、ほぼ資本主義社会と成り果てている日本には平等なんて有り得ないと思っています。
日本を支えているのは、おそらく零細、中小企業です。
なくてはならないものですね。
いくら大手企業がいようと、全ての仕事を一気に請け負うことは不可能、基本的に、下請けの零細、中小企業に任せることが多いでしょう。
こういった仕組みがあるので、これから言う事は一概にそうとは言えない事だとは思います。
しかし、流石にふざけているのかと思うことがあるので書かせていただきます。
「金のあるところから、金を取れ」「ないところから金を取るな」
は?
たしかに、最近では、赤字決済になると、法人税を5年間でしたか?払わなくて良くなると言うことを耳にしました。
これが俗に言う、大企業は税金を払っていない、と言うやつかと思います。
安部政権が大企業に忖度した政策をしたせいで、中小企業の首が絞まっていると何かに書いてあった気がします。
詳しいこともわからないのに、意見を飛ばしているのか?そうです。どうせ誰もが見ないのだから、今思ったことを書き殴ったっていいでしょう。
そもそもそのために作ったものですから。
話が折れました。戻ります。
「平等」これは、努力した人への冒涜だと思っています。中小企業が頑張っていないと言うわけではありません。
頑張っているけど鳴かず飛ばずなところもあるでしょう。
過程を重視する日本です。「頑張たんだね」と声をかけてもらえるかもしれませんね。
で?
お金をたくさん稼げるようになった大企業はそれまでの過程かなり努力をしたにもかかわらず、頭を捻り、抜け道を探し、利益を求めて、金の力で法人税をすり抜けるための子会社をつくり、より利益を追求できるようになったその大企業は、努力した末に金を巻き上げられるのですか?
たまったもんじゃない。
1代で成し遂げた訳ではないでしょう。長い歴史があったのでしょう。
その成れの果てが、国のために金を大量に落とす装置ですか?
金のある人間からぶんどった金で、死にかけた金なしを救い、貧乏な金なしを救い、思考停止した向上心のないものを救うのが平等?
随分とお綺麗でファンタジックな考えですね。
金のないところからから、金を取るな
これはわかります。
金あるところから、金を取れ
それは大いに正しいのかもしれません。
ですが、金のあるのところから「も」取れが正当ではないでしょうか。
金をたくさん稼ぐには相当な時間がかかったはずです。他にはない創意工夫もしたはずです。
その成れの果てが、全体の割合的には小さくとも、他社と比較した時、とんでもなく莫大な金を取られる羽目になる。
こんなことあっていいのですか?
努力したいと思いますか?
今黙って納税している高額納税者の方々が良く文句を言わないなと思います。
たしか、個人だと億を超える所得だと、その半分は累進課税で持っていかれたはずです。
自分が汗水垂らして働いた金の半分が持っていかれるというのはどう言う気分でしょうか。想像もつきません。
平等を謳うのは構いません。
しかし、少し考えて見てほしいなと思います。金持ちと、そうでない人の不平等を埋めるための「平等」という方法は、本当に誰に対しても平等でしょうか。
本当の平等なんてものを迎えたら、人間は頑張って競うことの出来ていたものから、喪失感に襲われる、みるみるうちに、人類は衰退していくのではないかと思います。
堅苦しい上に、拙い文章ですが、言いたい事はある程度書けました。
では また
何も変わらないのは、何もしていなかったから
どうも
もう、おきまりの挨拶等があったかすら忘れてしまいましたが、皆さま(まぁ、どうせ誰にも見られていないとは思いますが)お久しぶりです。
正式なナンバリングとしては、かなり久しぶりなのではないかと思います。
前回書かせていただいたのは、なんというか、心の整理でしたので。
未だに整理は出来ていないのですが、とりあえず、続けていかなきゃって思っていた、このブログですから、誰にも見られていないにしても更新しなければと思い、今、書いている次第です。
世間は、というか、世界中でコロナウイルスが流行っている状況。SATY HOMEが表すように、自粛、家にいましょうという状態が長らく続いています。
色々な方がそろそろ厳しくなってきた、家から出たい、ストレスだ。
とおっしゃってかと思います。
私はこの自粛生活であることに気づきました。私はこの自粛生活期間でも、働かなければいけない仕事ですので、働きに出ているわけなのですが、全く普段と生活している感覚が変わらないのです。
仕事があるからだろう?と思った方もいらっしゃるかと思いますが、考えてみてください、娯楽施設も外食も、色々なところが閉まっているにもかかわらず、影響がないのです。
そう、私は普段から仕事場と家の往復で、他の場所には全く出かけていない人間だったのです。
なぜ、日々、退屈なのだろうかと思っていましたが、他人が苦痛に感じる生活空間を自分で作り出していたからなのだとわかりました。
しかし、かといって、何か変えるつもりがあるのかと言われると、何もありません。
お金がないからです。変えようにも変えれません。
ただ、つまらないと感じていた原因がわかったこと、これは進歩です。活用しないと何の意味もないのは確かですが「つまらない日々を作ってしまっていたからつまらないのだ」ということを心にとどめて、これからも、つまらない日々を歩んでいくことだろうと思います。
それでは、今日はこの辺で
では、 また。
何も変わらないのは、何もしていなかったから
どうも
もう、おきまりの挨拶等があったかすら忘れてしまいましたが、皆さま(まぁ、どうせ誰にも見られていないとは思いますが)お久しぶりです。
正式なナンバリングとしては、かなり久しぶりなのではないかと思います。
前回書かせていただいたのは、なんというか、心の整理でしたので。
未だに整理は出来ていないのですが、とりあえず、続けていかなきゃって思っていた、このブログですから、誰にも見られていないにしても更新しなければと思い、今、書いている次第です。
世間は、というか、世界中でコロナウイルスが流行っている状況。SATY HOMEが表すように、自粛、家にいましょうという状態が長らく続いています。
色々な方がそろそろ厳しくなってきた、家から出たい、ストレスだ。
とおっしゃってかと思います。
私はこの自粛生活であることに気づきました。私はこの自粛生活期間でも、働かなければいけない仕事ですので、働きに出ているわけなのですが、全く普段と生活している感覚が変わらないのです。
仕事があるからだろう?と思った方もいらっしゃるかと思いますが、考えてみてください、娯楽施設も外食も、色々なところが閉まっているにもかかわらず、影響がないのです。
そう、私は普段から仕事場と家の往復で、他の場所には全く出かけていない人間だったのです。
なぜ、日々、退屈なのだろうかと思っていましたが、他人が苦痛に感じる生活空間を自分で作り出していたからなのだとわかりました。
しかし、かといって、何か変えるつもりがあるのかと言われると、何もありません。
お金がないからです。変えようにも変えれません。
ただ、つまらないと感じていた原因がわかったこと、これは進歩です。活用しないと何の意味もないのは確かですが「つまらない日々を作ってしまっていたからつまらないのだ」ということを心にとどめて、これからも、つまらない日々を歩んでいくことだろうと思います。
それでは、今日はこの辺で
では、 また。