ありがとうございました

あまり表立って書くことでもないので、しかし、どこかに記さなければ踏ん切りがつきそうになかったから、ここに残させていただきます。


憧れの人が亡くなりました。

いつから憧れていたか定かではありません。

それほど身近であり、勝手に自分の指標としていた存在でした。


頭の悪いことに、いつか必ず一緒にお仕事をさせていただくのだと、叶うかもわからない夢まで抱くほどでした。



なぜ、そんな風に振る舞えるのか、その表し方はなんななのか、お会いして聞きたいことが山程ありました。

よく知りもしないのに、気持ち悪いなと自分でも思いますが、それほどまでに、自然と好意的に捉えていた方でした。


人の死などというものは、いずれ訪れるもので、優劣など無くて。理解はしています。

でも、早過ぎます。心の整理が追いつきません。

自分勝手なことを言います。悲しいです。一緒に仕事できなかったことが悔しいです。

なぜもっと長生きしてくれなかったんですか、あなたに会って、一緒に仕事することを一つの夢としていた僕はどうすればいいのですか。もっと生き様を見て居たかった。いろんなものを見せて欲しかった。


なんの関わりもない人間がここまで書くのは気持ち悪いと、肥大な妄想もいい加減にしろという話なのですが、それほどまでに存在が大きく、私の中では、勝手に、まだまだ欠けることのない、欠けるわけがないそう思わせる方でした。


なんて言えばいいんですかね、自分の気持ちを纏めようと思い、ここを開いたのですが、どうも上手く行きません。



悔しい。悲しい。早過ぎる。腹が立つ。なんでなんですか。意味がわからない。

おかしい。ふざけてる。


どうか安らかに。




ありがとうございました。

予想に硬くないことでして

こんばんは

お久しぶりです


まぁ、思った通りに、ブログ書かなくなりましたね笑笑


いつもこうなるんですが、最近変化がありまして。何かと言いますと、こうやって戻って来てるんですよね。

昔は続けていたものも、やめたら、文字通り「お終い」「お仕舞い」

しまったままで取り出すことなんてなかった訳なんですが、最近は、出しますね。


これはいい変化なのかもしれません。

まぁ、出したからといって何か、物珍しいような事柄があったのかと言われるとそういうわけではなく。

ただ、平々凡々な日常を暮らしておりました。



話は急に変わるのですが、私はどうも聖人君主のような人が苦手です。

嫉妬はいけない、悪口を言ってはいけない、毒を持ってはいけない等、要するに悪と考えられるものは排斥、綺麗なものであれ。というか考えを持つ人です。


なんだか、気色悪いんですよ。

毒舌などというと聞こえは悪いですが、有吉さんなんて毒舌で人気ですよね(あれは、作られた舞台の上だ。と言われれば終わりなんですがね)

でも、そう言ったものが好かれるってことは、みんな、汚い部分も好きってことじゃありませんか?

あまりにも滅菌されすぎたせいで、現代っ子の体は、昔の人に比べて弱くなったとも言います。

痺れって普通は体にとってよろしくないことですが、山椒の痺れは、おいしさとして許容されています。

何でもかんでも「悪」と決めつけて、排斥してしまうことが、果たして正しくて人間としていいことなのか、いささか疑問なところではあります。

私は、少し不恰好な方が味があるんじゃないかなと思う人間です。



しかし、それが嫌だという人がいてもいいでしょう。

だって、その方が人間という種が整ってないことになりますから。


なんて皮肉を置いたところで、今日のところは終わります。


では     また、どこかで。

何もないってことがあるって宇宙かよ

こんばんは


言わんこっちゃないというか、期間、空きましたね。


少し期間が空いたので、流石になにかあったでしょ?と思われるかと存じますが、これがね、何もないんですよ。


人って、働いて金稼いで、自分のしたいことと、しなくてはならないことをしながら生きていくじゃないですか?

どんな人でも、そうだと思うんです。

では?それを急にしなくなったり、出来なくなると、どうなると思いますか?

生きていたくなくなります。


おそらく、私は、無理をすれば、通常の方と同じ様に生きていくことが可能です。

しかし、無理をして体が動かなくなることへの恐怖感が拭いきれず、それが出来ていません。

そこで何が起こるか。まともに働けないことへの不甲斐なさ、働けないことによる生活苦、人より劣っていると感じてしまう弱い心、他にも色々あるでしょうが、私は主にこう言ったことに苦しんでいます。



今、私が仮に人の役に立てるとするなら「こんな救いようのない、穀潰しの様な人間でも生きているのだから、あなたも生きてください」と人の安心枕になることぐらいでしょう。


こんな人間にも価値を与えてくれるとは、世界はどこまでも優しいですね。



では、何も出来ない自分への劣等感に苛まれた者の、誰も幸せにすることの出来ない文章はこの辺で終わらせていただきます。


気分というものは、目まぐるしく変わります。今度は、元気な私かもしれません。



自分の調子くらい調節しろよ、と思いますが、それが出来ていれば、私は自分のことを穀潰しなどと思ってはいないでしょう。


次の自分が、前を、いえ、少なくとも横を向いていることを祈りつつ、終わりたいと思います。



では、また   どこかで


何もなくても腹は減る

こんばんは


え〜、5回目ですか?6回目ですか?

記事を振り返ればわかるのですが、面倒なので、やめます。


さて、人生、生きていると

どうしたって腹が減るんですよね、残念ながら。


そして、最近、同じものばかり食べていて、飽きてしまったわけです。


惣菜とかを買い続けていると言う意味ではありません。



手料理のレパートリーが少な過ぎて、代わり映えしないということです。


昔、ある人に言われました。

人生を面白くするのは自分であると。


ここで使うような言葉ではないかもしれませんが、どこから面白くしていくかは自由かと思いまして。


私だって、つまらない人生を歩むことを許容しているわけでは、ありません。

結果的につまらなくなってしまっているだけなのです。


ですから「食」という、生命の根幹をなすところから、少しずつでも変えていこうではないかと考えまして。


え?今日は、えらく前向きだと?


日々気分なんて変わります。今日は前向きなだけで、明日はどん底に落ちているかもしれません。


そんなもんです。


とりあえず、何か代わり映えするものを作ろうと思います。


ネット社会ですから、情報なんてゴロゴロ転がっているでしょう。


明日の自分が、何か美味しいものを作っていることを願って、今日のところは終わりたいと思います。



では、また    どこかで



今日は何も無いより何もなかった

こんばんは


5回目になりますね。


今日も驚くほど何もなかった私の1日ですが、何もなかったことにより、虚無と仲良くなれました。


虚無、何もなさ過ぎて、これとの付き合いが長くなってきまして。

人間、何も考えない時間というものは必要と言いますが、何も考えなさすぎるというのも問題です。


その問題である虚無さんと仲良くなってしまうのは、如何なものかと思うところもありますが、なってしまっては仕方がない。


出来れば、これ以上、仲良くならないように努めたいと思っている次第です。いい感じの距離感を保っていきたいですね。



今日はこの辺で終了です。


では、また   どこかで。

何にもないのでちょっと他を

こんばんは


4回目です。


どうも時間感覚がズレているようで、1日に2つも書いている状態になっていますが、気にしないでください。



今日は、たまたまイジメの記事を読みました。

教育学の観点では「いじめの原因は加害者側にあり、被害者には絶対にない」


というのが、鉄則です。

私も、概ね、そうだと思っています。

しかし、いじめられる側に問題がある場合がひとつだけ存在すると思っています。


なにか。


それは「いじめっ子が、いじめれていた子にいじめられる」というものです。


過去に経験があるのです。

私も、まぁ、例に漏れず(例に漏れずって何だって感じですが)いじめられていました。


ある日、そのいじめがなくなりました。原因は、そのいじめっ子がいじめられ始めたからです。今まで、いじめていた子や、単に、その行為を気に入らないと思っていた子から。


気に入らないと思っていた子からのいじめは、加害者側に非があるでしょう。気に入らないからといって、いじめが正当化されていいはずがない。


ただ、いじめられいた子が、いじめ返した場合、これは、いじめ返した方が悪いのか?と思ってしまったわけです。こういった場合もいじめてる方が悪いのか?と。


これ、考えました。考えて、結論が出ました。


それは「いじめ返すのって、そもそもいじめじゃない」というものです。


どういうことか。


いじめって、その人に対する、気に入らない、うざい、見ていてイライラするなど「個人的な感情」で、相手に非がない(この場合は何かしら害となる行動を起こしていないという意味です)

のに起こるものだと思うんです。


対して、いじめていた子にいじめ返された。

これ、単に復讐だなと思いまして。

そう、これ、カテゴリーが全く別物なんです。やられたからやり返した。そう、復讐。


揚げ足を取っているようですが、これ、合ってると思うんですよ。


そう考えると、たしかにいじめって絶対やってる方が悪いなと思うようになりました。


いじめられる要素があったって「いじめて良い」にはなりませんからね。


少し話がズレますが、こういう復讐をされた側って、なぜが被害者面するんですよね。

自分がやったくせに、状況が悪くなったり、自分がやったことより返ってくるものが「表面上」大きかったりすると。


気に食わないです。自分がやったのが悪いくせに、自分のことは棚に上げるのですから。


「棚に上げる」

なんて言葉が後世に語り継がれている時点で、そういった人が一定数いるのは、いつの世も同じだということでしょうか。


胸糞悪い話です。


ということで、今回はこの辺で


どうでもいい人間が、どうでもいい見解を述べましたとさ。


では、また。どこかで。


何も無いが一応有ってしまう

こんばんは


3回目ですね。

奇跡的に、こういったものを書いているということを覚えていました。

実は、胸の痛みが治りました。ありがたい。ありがとう。 

呼吸がしづらいというのはなかなか大変だったのでありがたいの一言に尽きます。


しかし、そのかわり、腰痛が悪化しました。

プラマイゼロってやつですね(おい、本当にプラマイゼロって言った人、謝ってくれ)


ここ最近の中で一番痛いです。


人間、感謝するということは非常に大切であり、重要だと思います。

当たり前にそこに存在している、ありとあらゆるものにも感謝するべきだと思います。


しかし、しかしですよ、腰が痛くても、体はまだ動いている。動けていることに感謝しようっておかしくないですか。

なぜ、それより上の「なんの痛みもなく動ける」という方に感謝させてくれないのですか。なぜ、私はそれより一つ下のものにしか感謝出来ないのですか。


こういうことに上とか下とかつけるのは良く無いのは分かっています。



そして、これは贅沢な発言かもしれません。

しかし、贅沢でも構いません。私は何不自由なく動ける体の方に感謝したいのです。だから諦めません。


あまりに痛みがキツイのでイライラしてしまいました。申し訳無い。


今日も無駄に食材を貪った穀潰しな私は、明日もまた、イライラしながら、のうのうと世にのさばります。


誰も私に出会いたくは無いでしょうが、生きているからにはどこかで会ってしまうかもしれません。でも、許してください。


それでは、また  どこかで